表現の自由は素晴らしいものだけれど、砂糖と塩は間違えちゃいけないわけで。
雪の音が好きだ。
外は朝から優しい雪が降っている。
次元横断的で底が知れない
さて。表現力のある人たちには、言語一つではっとさせられる。
彼らは、ありふれた言葉同士をびっくりする様な方法で結びつけ、
しれっと新しい世界を描き出す。
表現は色んなものを飛びこえる。ときに、魔法の様ですらある。
でも某「吾輩」は、やっぱり猫なわけで
いっぽうで、表現の原材料である一語一語には、必ず沿うべき定義
がある。自己流の定義を多用する人がいるけれど、それがしたけれ
ば、よほど"文学"をやるでもない限りは宣言すべき。
「ここでは◯◯という言葉を〜という意味で使います」と。
使う道具は、まず機能を知らなくちゃ。わけもわからず道具を「使
いこなす」なんて、ありっこない。人を感嘆させる魔法も、無法地
帯には生まれない。まず、伝わらなければ。
名前がまだ無いどこぞの「吾輩」が、自分を猫だと言ったなら。
ほとんどの日本語話者にとって、彼が愛玩動物として親しまれる食
肉目ネコ科の家畜であることは明らか。狸とも魚とも違うのだ。
あぁ、「猫」を知っていて、よかった。
意味は、そんなに自由じゃない
言葉の定義を考えるのが好きだ。
たぶん、大学時代の恩師の影響が大きい。
私たちの敬愛する先生はとても可愛らしい人で。知性に、声に、笑
顔に、いつもうっとりさせられたものだ。
先生は、学生の発言に逐一「定義は?」とお尋ねになった。一文言
い終えるやいなや、寧ろ一文の間に何度もつっこむことも多かった。
学生の話は一進一退。何人かの学生は愛情を込めて先生を鬼のよう
に言った。
自分の頭の中にある地図と同じものを、相手の頭の中に、白紙の状
態から描かせる。「伝える」というのはそういうこと。
おかげで私は、定義力は先生の足元にも及ばないながら、その大事
さ、便利さを知ってしまった。友人にも恋人にも会社の取締役にも、
ツッコミが抑えられない体質になってしまった。
冷たい、細かい、うるさいヤツだと思われることもしばしば。
「会話ができる」ってすごい
「定義、定義うるさいなぁ…」そう思うだろうか。
定義がなければ会話も読書も全て幻想なんだもの。猫は猫ではなく、
四角は丸かもしれなくて「AがBだ」は「%が〒だ」になりかねない。
同じ様に、科学の世界がややこしい専門用語で溢れているのだって、
実はとっても便利なこと。難しい研究に基づく難しい概念を、専門
用語1つで表すことができなかったら?壇上でいったい何年口を動
かせばひとつの論文発表が終わるのだろう。
似て非なる言葉として、よく聞くペアがある。「論理」と「理論」。
「論理」は考えや議論の筋道のことで、内容がどうであろうときち
んと筋道立っていれば「論理的」。「理論」は論理的知識の体系で、
理屈にかなっていなくてはいけない。個人的な考えは、論理的に話
しても「理論的」にはならない。
科学における偉人、ベロ出しで有名な某理論物理学者が書いたのは
「相対性理論」であって。「相対性論理」では科学的に聞こえない。
砂糖と塩を間違えたらイタダケナイ
定義が甘い話は、塩のつもりで作った砂糖ラーメンの様なもので。
「理論」と「論理」の区別が甘いということは、キッチンで、白い
粉に見える調味料を全て一つの瓶に入れている様なもの。
砂糖と塩は別容器に。きちんと整理したものをいい塩梅に配合でき
る人に、カリスマシェフの道が開ける。