kayesque

本と映画と、ときどき音楽 旅と雑多な考えの記録

わかりやすくて、ちょっと可笑しい

「え、もうこんな時間((((;゚Д゚)))))))」とか「もう◯月⁈」とか、

誰かが言うのを聞いたり、自分で思ったりしたことがあると思う。

 

人は、ある時点にくると自分なりの意味を感じて焦り出す。

かくいう私も昨日(6/1)思った。

「もう6月?つい先日今年が始まったばかりなのに!」

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迫り来る水無月

6月、この月が過ぎれば、今年の折り返し地点。

大きい事とは言わない、「1年」の間には、何かしら成し遂げたい。

そう思っている私にとって、水無月の到来は大ニュースだった。

 

ちょっと待てよ、

6月を迎えて驚いた次には、別の考えが浮かぶ。

「どうして私は6月に焦っているの?」

1年を12に、1日を24に。この区切りは人が勝手に作ったわけで。

その物差しは気に病むべき程に必然なのか。

 

一連のものを区切って生きている

地球がぐるっと回ると、日が昇って、沈んで、月の時間。

しばらくしたら、次の朝が来る。

たしかに「一日」という概念は目に見える。

 

でも、私たちは1日をもっと細分化して生きている。

1日を24時間に、1時間を60分に、エトセトラ、エトセトラ。

「一日」という1本の直線に目盛をつけて数直線にすると、

途端に現在地がわかりやすくなる。

 

数字に見えるものだけではない。

たとえば仕事で長文メールを書くときは、改行して、行をあけて

一息に書いても内容は変わらないけれど、見やすくなるから。

 

わかりやすくて、ちょっと可笑しい

世の中には「便宜上」定義されたシステムが多い。

私たちはそのシステムの中で生きているから、それを基準に

焦るのは当然といえば当然。

でも、そのとっておきの便宜的システムに自ら結構な度合いで

影響されていることを改めて思うと、なんだか可笑しい。

自分のしっぽを追いかけて回転する猫の姿が思い浮かぶ。

 

大真面目なのだけどね。

時間の量をはかる時や分や秒も、

価値を数字ではかるお金も、

重さや距離を表す単位も

人は、目盛り・区切りを持つことで、一連のものごとのうち

自分自身、あるいは自分が今話題にしているものの現在地を知る。

その「便宜上」ができるのは「人類ならでは」でもある。

けれど同時に、自分たちで作ったものさしに翻弄されて生きている。

 

それは、ふと主体を離れて他人事に眺めると

なんだかコントみたいでちょっと可笑しい。

 

とか、思うことがある。