じっくりくるくる、すっきりとんとん
SNSフリーになって、1年前後たつ。
アカウントを削除したのは、Twitter と Facebook、Instagram。私にもサービス上アクティブだった頃がある。
脱SNSで、毎日がらくちん・有意義になった気がする。
主体的
[形動]自分の意志・判断に基づいて行動するさま。
建設的
[形動]現状をよりよくしていこうと積極的な態度でのぞむさま。
(デジタル大辞泉より)
のんでものまれるな
情報過多。
カギは、自分が関わる情報を、主体的に、主人公として選択・処理することだと思う。
SNS自体は目的によってとても有益だけれど、今の私には必要ない。自分の現状・目標に合わせて建設的に選択していきたい。こんな時代こそ、引き締まった情報まわりを作りたい。
ここで言う「SNS」は、サービス上で知り合いを増やしたり、交流の少ない知り合いの近況を見て接点を持ったりするもの、不特定多数とコミュニケーションができるもの。
私も現代人の端くれ。「電話とメールだけ」は難しい。LINEやSkypeの様なメッセンジャーは5つほど、毎日使う。でも、それらの一部が持つSNS機能は使わず、メッセージだけ。
実際、
目的不明瞭なSNSの渦中にいた頃よりも身軽だ。
渦中といっても、炎上のようなヤラカシをしたのではない。SNSに縛られない暮らしがシンプルでらくちんだということ。妙な写真を撮るからと友人に勧められてはじめたインスタも、煩わしくてすぐにやめた。
シンプルらくちんライフ
脱SNSで、 有効な時間が増えた。きりがない通知から解放されたし、もう「一応チェック」しなくていい。頭の中も片付く。テクノロジーが常に効率的とは限らないようだ。
義理的な流し読みや暇つぶしは、私の虚無を深めていた。周囲に合わせてSNSを選んでいた頃は、情報の海をふわふわ漂うようにタイムラインを撫で回していた。
それをやめて、行動や学び、創作に積極的な時間が増えた。何かに深く考えを巡らせたり、ひとつひとつをより「きちんと」生きたりすることで、過ごす時間の濃度が高まるように思う。
「クリエイティブ」という言葉は私なんぞのためにあるものではないけれど、生産性は上がったようだ。半ば社会のものだった自分の時間が、私自身のものになった。
つまりは
前置きしたように、SNSそれ自体は素晴らしいものだ。自分や組織、製品・作品を拡散するにはとても心強いツールだと思う。それに、学生さんたちにはそういう繋がりオプションがマストな場合もあって当然。居場所を失って夢や情熱を消されてしまうくらいなら、その間は少し周りに合わせるのも正解。
ただ、SNSに限らず言える事だけれど、目の前のものがある日常とそれがない日常を想像してみて、なくても平気そうだったら断捨離してみても良いかも。
(余談)スマートフォンは、スマートなフォンなのだけれど…
アプリまみれのスマホは苦手で、独自ルールのもとiPhoneを使っている。使うアプリは、1画面に入る分だけ。
同じ目的の媒体がいたずらに増えると、なんだかくやしい。メッセンジャーは付き合う人の文化圏や居住地によって増えてしまうのだけど…。
ちなみに、画像は埼玉県某市で出会ったネコ様たちです。
たぶん地域猫。