kayesque

本と映画と、ときどき音楽 旅と雑多な考えの記録

シラナイはおっかないのはなし

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知らない

自分が何かを知らないことに気づくとき。ちょっとした冷や汗もの。

ある人が何かを知らないとき、彼は水面下で「知らない自分」の影響を受けている。

世の中には知らなくていいこともあるけれど、時に、その影響は大きい。

知らないということは、時にホラーなわけで

20代も後半にして人生の迷子。自分自身や将来の目標が見えない。

私は今、自分に焦点を合わせて生きる練習をしている。

そんな中「知らない自分」の危うさに改めて気づいた。

 

知ることの種類と段階

「知る」の種類はけっこう色々ある

知るということ。

何かを認識・経験したり、学んだりすることに始まって、理解、把握、慣れ、覚え、

などなど。

 

「知る」の種類は、「知る」の段階でもある?

対象によって、いちばん大きな「知る」のレベルは違う。

”それ”を最大限に知った状態は、経験?理解?慣れ?覚え?

 

「知る」の大きさ(深さ?)は例えばこうじゃないかと思う。

 経験<慣れ<覚え といった具合。

 

「知る」の可能性が大きい時ほど、突き詰められる奥行きのあるものほど、

「知らない自分」の存在は大ごとになってくるように思う。

 

知る=一歩先へ行く準備?

知識・認識は、アタマの中の道具類。

経験なら、その道具に取説がついた状態。

慣れて来たならば、道具は手に馴染み始める。

覚えたならば、道具はもはや手の一部同然、自分の手に”有機的に”馴染んでいる。

 

覚えたことに関して、新しく初めての局面を迎えても応用がききやすい。

馴染みの道具と、ふせんをつけて読み込んだその道具の取説があるようなもので、

参照すべき章(経験)も見つけやすいし、取説の文章から工程をイメージにするのも軽々。

 

「知らない自分」がどう影響するのか?

最近、自分を知ろう、と自己分析をするうち、2人の「知らない自分」に出会った。

 

知らないうちは消費者、知っていれば供給側

自己分析?知ってるしってる、学生の頃に一回やったし!と思っていた。

学生の頃、就活に備えて自己分析をするよう、口酸っぱく言われた。

それで、当時いろいろなシートを使ったものだから、雰囲気だけはわかる。

 

「どうせならしっかりやりたいなぁ、学生の頃は答えが出なかったし。」

「自己分析の方法なんてネットにたくさん転がってるでしょ」

そう思って、インターネットで自己分析のやり方を探す。

 

Youtubeでキャリア形成を教えている人を見つけた。

説得力はあるのだけれど、この人にきちんと教えてもらうには何万円もかかる。

もう一つ見つけたウェブサイトも、オーナーは自己分析の方法や雛形の提案を

生業の一部としているらしい。

 

「ちぇっ。自分を知るにもお金かぁ。」と思うと同時に、考えた。

この人たちも、初めは自分のために自己分析をやったわけで。

自分のためにやってきたキャリア形成の過程を、よく理解して最終的に他人に教え

られるところまでレベルアップ・咀嚼できれば、もう”供給側”になれる。

知識・経験をツールに昇華し、役立て方を覚える、ということ。

 

アクションを起こすにも...まずは自分自身の方向性を知る、ということ

知識・経験をツールに昇華し、役立て方を覚えれば、供給側に立てる。

あとやっぱり、理想的には、自分がしたい事・生きたいフィールドを見つけたい。

 

傲慢に聞こえたら嫌なのだけれど、進捗管理には人より長けている。

仕事でもプライベートでも、「逆算意識」を大切にしている。ゴールありきなモットー。

でも私は、ゴールである”夢”や、アプローチ戦略に関わる”強み”がわからない人生迷子。

 

そう長くない人生を、何にどんなペースで費やすべきなのか、それが見えなくて困っている。

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やっぱり、「知らない」はかなり厄介で、

知らない私のおかげで私の人生はぐちゃぐちゃしている。

早く何か見つけたいなぁ。