ときめきと欲
日曜日、目的もなく家を出た。
50分歩いた先にある最寄り駅までただ行って帰ってきたのだが、途中の交差点がすごいことになっていた。
角にはミセスに人気の百貨店。ブランドものやちょっといいギフトのお店が辺りで一番多い建物だ。
不機嫌な視線を交えながら我先にと左折右折のかけ引きを繰り広げる車の群れは、どうやらそのほとんどがこの百貨店に向かっている。
欲しいものがあるって大変なんだなぁ。
ここ数年、物欲から忘れられている感がある私は、自分の欲の行き先について考えてみることにした。
基本的には食うと住む
自分や部屋を飾るものは1年程買っていないし、目に楽しい雑貨や街並みに目を奪われはしても、ほぼ一切、購買に至らない。
コンスタントに消えていくお金の行き先はほぼ、「食う」と「住む」。
あれ?
消費って、暮らしを豊かにするとか幸せになるとかのためにもするものだったような…?
手に入れる、ということ
売買契約というのは原則、等価交換。
商品あるいはサービスは、それに見合った対価と取引される。対価の基準は実にたくさんの要素で、売る場所や、素材や、ネームバリューなどなど。
今の私にとって費用対効果は、もっぱら実用性と修練性(?)による。仮にお金に余裕があっても、デザインがとてつもなくかわいくても、これに見合わなければ手が出ない。
時間の消費についても同じこと。同じ時間を生産に費やすか、それ以上の価値が見出せる消費に費やすか、ということだ。
もしかして私、枯れてる?
大学生になった頃からだろうか。衣・食・住その他全ての数字を自分で管理するようになったせいか、「消費って楽しくないなぁ」と感じる様になった。
歳を重ねるごとに、消費することで虚しさすら覚えることが増えている。私の場合それは、実用しない物を買った時や、食事(買出しから皿洗いまで)をしている時に顕著だ。
これが「ときめき力」とやらの枯渇なのだろうか。
コトの消費
ときめき欠乏中かもしれない最近の私が躊躇せずに買ったのは、旅行と電子ピアノ、本、オンライン英会話。
連休や会いたい人があればふらっと出かけてしまうし、ミュージカル映画を見た勢いで楽器を買ってしまう。英会話はそれまでどこか斜めに見ていたのだけれど、いろいろあってやってみたら楽しかった。
私の近ごろの消費は、モノではなくコトに偏っているらしい。身の回りにものを増やすことには魅力を感じないけれど、経験・技術・知識を得ることには価値を見出している様だ。
昔からよく「まじめだねぇ」と言われるのだけれど、そんなことはどうでもいい。私は間違いなく、そういうものにときめいている。
消費することの価値
どこかで大体こんな感じのことを読んだ。詳しいところは覚えていないのだけれど。
幸せの尺度は千差万別。ある人が幸せかどうかは、
彼・彼女がその状況や物、関係性に価値を見出すかどうか。
衣食住の最低限を整えたあとは、欲もそういうことなのだと思う。
学生の頃の私は、自分の物欲が減ったのは、物を買っても自己研磨にならないからだと思っていた。でも、極端な言い方だけれど、経験・技術・知識を得たとして、自分はいつか死んでしまう。
どんな消費行動をしてきたかなんて、閻魔様の前ではなんでもないことなのだ。
部屋の中にものが増えるとか、自分の中にコトが増えるとか。人が欲に基づいて下す決断は結局主観によるものだ。
その時その人にとってベストな方法で、後悔しない消費をすればいい。
…というお話。