私はほんとうに私のものなのか?この時代の自分を「自分で生きる」ことを考えてみる。
今、この瞬間の私を所有しているのは、私なんだろうか?
ふと思った。
ふいに空いた時間を、ニュースアプリやマンガアプリ、動画でつぶす時、
生活をこなすだけでいっぱいいっぱいの今に、将来の自分が満足するか考えたとき。
「私、これでいいの?」と考える、もう一歩前のおはなし。
自分の人生を、自分自身が生きる
最近、自分自身にフォーカスする練習をしている。
なんというか今、個人的に「ちゃんと生きる」プロジェクト中なのだけれど、
「人生これでいいのか」を考え始めたら、もっと根本的な問題が見つかった気がする。
「私」の主体は、ほんとうに自分自身なのか
人は、情報や周囲に影響されやすい。それなのに、世間とか常識とか、無難さとか正しさとか、そういう人が頼るものは、困ったことに案外ゆらぎやすい。
加えて、情報過多だグローバル化だと叫ばれる今、時代はこんなにも”ちゃんぽん”なわけで。
現代人は一層、うっかりしている場合ではないのかも?
それならば、「自分」が信頼に値するものでないといけない。
ここらで一度、自分を主体に据えて、自分の判断で生きる力をつけておいた方が良いのかも。
たとえば、将来を考えるとき。ぼんやり「今の仕事は一生モノじゃないな」とか思う。
確かに選んだのは私だけれど、これを選んだ主体は私だっただろうか?
世間やら"常識"やらに左右された価値観を自分のものと信じ込んでいたから、
自分ひとり納得させられないのかもしれない。
たとえば、時間つぶしにスマホでコラムやマンガ、動画を楽しむとき。
なんの気なくアプリを開いたけれど、そこにはほんとうに自分の意思があったのか?
なんとなく、流行りのアプリをインストールして、時間つぶしはそういうものと
思い込んでいたかもしれない。
私はこのニュース、読んでる?読まされてる?
スキマ時間に新聞やwebニュースを読む人だって。
時事に明るくて一見「ちゃんとした人」だけれど、実は「ちゃんとしたつもりの人」かもしれない。
時代の流れや風潮は、世間やメディアの物の見方や「読むべきニュース」を簡単に変える。
過去、戦時中の日本の図書館では”お国”のための読むべき本がトレンドとして陳列された。
西洋哲学その他の本は市民の目から隠されたから、一般人がアプローチできる世界の見方の選択肢は少なかった。
ほんとうに客観的・多角的な視点で「情報を取りにいく」ことは、今だって難しい。
自分で決める
外からの影響を完全排除することはできないし、それはそれで周りが見えていないことでもある。けれども、こうして考えると、自分について考えることをおざなりにしてきたことが悔やまれる。
だから今、アホらしいほど小さいことでも、
「できるだけ多くの選択肢を視界に入れ」て「自分で選ぶ」練習をしている。
たとえば、
・コーヒーを買う時はコーヒー屋さんに行って、産地・種類・焙煎方法を自分で決める
(こんなにバラエティに富んでいるのは、カフェの一席からはわからない)
・気になる話題は、複数メディアと複数言語・文化圏の媒体をみてから意見を決める
(喧嘩を仲裁するときにきちんと両方の言い分を聞くようなもの)
・みんなが使っていてもイイねがもらえても、自分にとって非生産的なアプリは使わない
(世間の流行りより自分の流行り)
少しずつ、ほんとうに少しずつだけれど、半年前より、2ヶ月前より、自分にピントが合ってきた気がする。
もちろんこれで万事オーケーではないけれど、少なくとも私は自分自身の所有者になり始めていると思う。